いらないモノ、ひつようなモノ

書籍、音楽、そして若干のテクノロジー

ラナーク―四巻からなる伝記/アラスター・グレイ を読んで

金字塔らしいが読みやすかった。
 超弩級百科全書的ノヴェルとか、トマス・ピンチョンの重力の虹と比較されたり、20世紀最重要世界文学なんて銘打ってあったり、分厚かったりとか。「金字塔=読みにくい」という印象を持っていたしそう宣伝されているように見えた。(重力の虹とはあらゆる点で異なっているし、読むスピードも速く維持できて)予想に反して短時間で読み切った。しかし、というか、逆に、というか、1〜4巻の入れ替えやら玄人しか分からないような盗作や細工まではマチガイナク僕には「理解」できていない。「金字塔」という言葉が腕組みして黙って見下ろしている。楽しかった読後感から僕は頬を紅潮させている。
 単純な感想。ラナークの周囲にはやさしい人ばかりだと思った。本当の悪人は居ないように見えた。確かに、最後に裏切りがあるみたいだが全人格を持って非人間的な裏切り者だとは思えなかったり、リマだって結局は素敵な女の子だと断言したい。生きた人間はどこか優しい部分が普通はあるんだから当たり前だろう、というレベルより少しだけ、やはり優しさの平均値が高いように思えた。だれも賛成してくれないかもしれないが。
 不条理や非人間的なものは、人間を離れた組織というレベルや、不可解な生命体のなかに押し込められているように思える。評議会という無意味の生産を行う組織や、ジョブセンタという不満な人々をなだめすかす組織。だからこそ、小さいコミュニティーがいいんだろうか?統制されて生産するものと生産しないものが現れたときに資本主義の嫌らしさがにじみ出てくるのだろうか?
 作者もどきはなぜ登場したんだろう??面白いからいいのだということもできるが、なくてもいいようにも思える。ただ、ここはぐっと来た。「そのほとんどは会話文であるようだったが、ラナークの目がふと、太字で記されたこんな一文に留まった。そのほとんどは会話文であるようだったが、ラナークの目がふと、太字で記されたこんな一文に留まった。
お告げは、一体なんだったのだろう。 お告げは他の登場人物の誰かでありえないような気もするし、作者でもなさそうだし。読者?読者なのか?ちがうだろうな(僕は金勘定は得意じゃないし、物理的な実態と精神がほぼいつも分離はされていないと思うし)。むしろ生命体のほうが読者に近いのかもしれない。いや、どちらも間違いで読者はやっぱり本の外に居るだけに違いない。本が読むことで本の内側の時間を作り出し、その時間の内側に読者が居たら面白いかもな。とか考えているんだから、それだけ作者の登場は意味が僕にとってはあったのかもしれない。
 ちょっと違うかもしれないけど似たようなことが沢山思いつく。
 例えば、記憶の書の一場面を思い出す。ドラグン・ビロウの記憶の中にいるにもかかわらず、まさに物理的な身体を置いてきた場所と同じところに足を踏み入れる場面。個人的な体験で言えば、夢の中で「これは夢だ」って気がついて、本当に夢だよな?って曖昧な気持ちになる時。あと、自分がシミュレーションの世界の非実体/実体だと自覚する映画。
 これに作者=神というスキームを持ち込むと(神も一緒に本という世界に押し込められているにしても)宗教的でかつ、非宗教的な構造になる。
 正直言うと僕もラナークのようになりたい。いやなりたくなくない。