いらないモノ、ひつようなモノ

書籍、音楽、そして若干のテクノロジー

色々な本をまた読み漁ったけど

ジェフリー・フォードを2冊.白い果実のような捩れドライブ感は薄いかも。

記憶の書

 瞬間。そして記憶。この二つは本書の主要テーマであると思う。
 誰もが思うことかもしれないが、思いのままに瞬間と記憶を操れたらと思う。その二つの正体がいつの日かこっそり自分に明かされたらと願ったりする。なぜなら僕は心のどこかで、この(どの?)瞬間を感じることは永遠の中でみずからの存在意義を見いだすひとつの方法だとおもっているからだ。緩慢な世界の中でそれをかんじるのは容易なことではない。年齢をかさねるごとにより一層難しくなってきたと最近感じている。
 記憶も不完全なかたちであたえられた自我を構成するための装置だと思える。人は特定の瞬間を永遠に鮮明な形で記憶していたいと思うだろう。僕の場合の記憶のイメージは、あたまに接合された逆向きの円錐に堆積されてゆくものだ。その円錐は無意識にそして時に意識的に自らの現在位置を確かめる装置であるような感覚がある。ときに最悪の記憶を反芻しそれが後頭部にのしかかったりもする。
 瞬間と記憶は、その意味で生と死に分かちがたく結びついていると言えるだろう。生の証明であると同時に死の膜を通して浮かび上がってくる自己の破片だと思う。破片は硬質だが膜を通すと形は曖昧になる。死の先にある記憶はどんなだろう。死の一瞬先はどんなだろう。
 物語は意図的に技術としての記憶と瞬間を暴いてみせようとする。それが不可能なことを知らない登場人物たちは本を閉じたあとからじわりじわりとまるで自分の姿であるかのように思えてくる。
 アノタインはクレイと出合うことで彼女の知りたい瞬間にたどり着けたのだろうか?クレイは感情をいつになったら解き放つことができるのだろうか?ドラクトン・ビロウは実はクレイよりも多くの瞬間と記憶を抱いていたのではないだろうか?
 そう書き記す自分の生活は白眼のトッテコイに搾取され社会の暗黙ルールと言う「優男」に恐れおののきながら感情を解き放てない無実体の人格ではないだろうか?一望監視装置(パノプティコン)を備えた現代社会という牢獄で、瞬間を見いだす前に時間に急き立てられ、生の表層をかき回しながら水銀の海で溺れたまま死に近づきつつあるのではないか?

シャルビューク夫人の肖像

この本。悪くはないけどすごく良いわけではないな。ところで、シャルビューク夫人って変なヒトだよな。