いらないモノ、ひつようなモノ

書籍、音楽、そして若干のテクノロジー

私的なcsoundへのオマージュ

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csoundとは「音」をデザインするための文学的なシステムである。

Xeroxで生まれたWindowシステムのマウスによるポインティングやペン入力ではなく、スマートフォンで再発明された音声入力でもなく、キーボードとエディタでのテキストによる入力。これがあらゆる情報処理とそこから生み出される表現形のDNAである。0/1よりも人間的。音声入力や手書き表現よりも原始的。その原始性と結びついた音響システム。これがcsoundである。

感情を表現するためにopcodeを組み合わせてスコアを一行一行書き、積み重なったテキストが音の物語を紡ぎだす様子は共感覚的にすら通じるところがある。

csoundのコードを持って誰も聞いたことのない音響を生み出すことを夢見る。そんな想像を膨らますことを許してくれることが人をcsoundへと誘うのではないだろうか。文学も文字というありふれた記号を使って誰も聞いたことのない物語を作り出す営みだとすれば、それらはとても似ていると感じてしまう。

csoundは多様な音響技術一般(生成、解析、フィルタリング、、、)を貪欲に取り込み、多様な外部システム(MIDI, VST, DSSI, LADSPA, SoundFont2, PureData, Faust, TCP/IP, C, Java, Python, Lua, OSC, Android...)に触手を広げ続け拡張を続ける。

常に新しい技術と結合と変形を繰り返す一方、どこか旧式な、まるでテレタイプしかなかった太古の電脳世界を思わせる奇妙なレトロ感覚が潜んでいる。
それは隔絶された世界で脈々と生きつづける音響の原生命が独自に進化を遂げる見たこともない動物の姿を見てるようだ。

その意味でもcsoundは決して美しく洗練されたシステムではない。理解しがたいほどたくさんの演算子。独自の記法。原始的な言語体系。むしろ色々な無駄と奇妙な矛盾を含んだ実験的なシステムに見えてしまう。でもだからこそ、自分でも極めて非力な実験を細々と繰り返して何かを見つけることを期待してしまうのかもしれない。

こうして不思議な可能性を感じさせてくれるのがcsoundなのだ。それは商用のGUIや機能が優れたシステムとは異なり、UnixからLinuxに引き継がれた不完全で自由度の高いシステムが提示してくれるものと同じであるように感じる。

個人的に情報処理の根源がキーボード操作に根ざしている部分が大きいのでcsoundに共感を覚えるところがある。これは100年先には理解されない感覚なのかもしれない。100年先にもcsoundは残っているのだろうか。もっと自然な形でDAWと結合されて表現の仕方が広まっているのかもしれない。


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